ホーム / MEDIA

MEDIA

ライカの決断|1924年のリリパットから読む経営

この記事の結論
ライカの決断とは、1924年にエルンスト・ライツ2世が小型カメラの量産を決めたことです(株式会社オムニモスーク・安田旬佑)。原文は「Ich entscheide hiermit: Es wird riskiert」、ここに決める、リスクを取る。当時の会社は海外の拠点を失い、社内には懐疑があり、初年度の販売は約1,000台でした。私は、決断は言葉にして残したときに、はじめて会社のものになると読んでいます。100年後のいまも、ライカの公式はこの一言を語り続けています。

「決めなければいけないのは分かっている。でも、怖い」

経営者なら、一度はそう思ったことがあるはずです。小さな会社が先の見えない時期に何かを決めるとき、その決断をどう扱うか。ライカの1924年を、公式の記載と当事者の証言で、1枚ずつむいていきます。


1. 公式が100年語り続ける一文「ここに決める。リスクを取る。」

ライカの公式サイトの歴史のページに、こう書かれています。1924年、量産には深刻な経済的リスクがあった。市場は不確かで、製造費は高く、会社の評判がかかっていた。社内に抵抗があり、多くの管理職と技術者が懐疑的だった。

その議論に線を引いたのが、社長のエルンスト・ライツ2世の一文です。「I hereby decide: we will take the risk.」。ドイツ語の原文は「Ich entscheide hiermit: Es wird riskiert」。私の訳では、「ここに決める。リスクを取る。」

おもしろいのは、この一文の残り方です。ライカの研究者の記事によると、この会議には日時を記した議事録がありません。日付は、イギリスとドイツの特許の日付から、1924年6月16日か17日ごろとみられているだけです。言葉のほうは、ずっと後の1951年、ライツ2世の80歳の誕生日のラジオ放送を通じて伝わっています。

議事録の残らない会議の、一文だけが残った。そして公式は、この一文がそれ以来の自分たちの哲学を支えてきた、と書いています。一文の向こうには、ひとりの技術者の発明がありました。

経営者・ブランド管理者向けThe Art of Branding 無料説明会次回勉強会のテーマ 「ブランディングに必須のアート思考とは」無料で申し込む

2. 量産を決めたカメラは、ぜんそくの技術者の「リリパット」だった

発明したのは、オスカー・バルナックです。1911年からライツで働き、精密工から、映画と計測の技術の開発責任者になった人でした。

公式の説明には、発明の理由がはっきり書かれています。バルナックはアマチュアの写真家でしたが、ぜんそくのために、当時の大きく重いカメラを持ち歩けなかった。だから1913年から14年にかけて、小さく軽く、画質の変わらないカメラを作った。それが、のちに「ウル・ライカ」と呼ばれる試作機です。

バルナック自身の呼び名は、「リリパット(Liliput)」。『ガリバー旅行記』の小人の国の名前を、愛情をこめて付けたと公式は書いています。

仕組みの発想も、身の回りから出ています。映画用の35mmフィルムを横向きに使い、1コマを24×36mmに広げた。ボディはアルミの鋳造で、上着のポケットに入りました。ウッパータール大学の解説は、そう伝えています。

ライツは顕微鏡で知られた会社です。その中で、ひとりの技術者が自分の体の事情から作った道具でした。職人技術と歴史はブランドの価値として語られますが、その始まりは、ずいぶん個人的なところにありました。

この小さな道具を、会社の製品にするかどうか。それが1924年の議論です。決断が重かった理由は、カメラの側より、会社の側にありました。

3. 決断のとき、会社には何がなかったか。海外の拠点、資金、合うフィルム

ライツ2世の孫、クヌート・キューン=ライツ博士のインタビューが、ライカの愛好家団体のサイトに残っています。家族の側の証言ですから、その前提で読みます。

第一次世界大戦で、会社は海外の足場を失っていました。ニューヨークの支店は1917年に接収され、ロンドンの拠点はイギリスの参戦で閉じ、ロシアの拠点は革命のあとに清算された。国内の金融資産は、ハイパーインフレとその後の通貨改革で失われた。

相手も大きい。ツァイスが主導して合併したドレスデンのICAは、1920年に従業員2,200人。コダックは、1920年代半ばに世界で2万人を超えていた。ライツはカメラでは新参です。

しかも、フィルムが追いついていません。当時の感度は4/10〜7/10 DINで、感度が高く粒子の細かいフィルムが出るのは1932年、アグファのものでした。小さなネガから大きな写真を作るのに向いたフィルムが、まだ世の中にない。

私は講義で、孫子の「リスクを犯して、無謀な戦争をしてはならない」を取り上げ、まずリスクを認識することを話しています。ライツ2世の一文がおもしろいのは、「いける」でも「大丈夫だ」でもなく、「リスクを取る」と言っているところです。社内の懐疑も、市場の不確かさも、言葉の中に入っている。リスクを消した決断ではなく、リスクを名指しした決断です。無謀との境目は、度胸の量より、何を賭けているかを自分の口で言えるかどうかにあると私は考えています。

これだけ何もないときに賭けた理由を、孫は数字で語っていません。

4. 動機は、計算より先に「社員の仕事」だった

同じインタビューで、孫はライツ2世の考えをこう伝えています。この小さなカメラは、社員の仕事をつくる機会だ(原文は「an opportunity to create work for our employees」)。

市場の大きさでも、競合に勝つ見込みでもない。会社に仕事がなくなりかけている時期に、社員の仕事をどうつくるか。孫の証言ですから、美しく語られている可能性はあります。それでも、公式の側も「経済的に難しい時代に」量産を決めたと書いており、時期の事実は合っています。

私も公開している動画で、こう話したことがあります。物価が苦しいと言っているだけでなく、もっと立派な会社にしようと決断しなければ、中小企業は大きくならないし、雇用も守れないし、新しい挑戦もできない。あの話は人に向けたものというより、自分自身に言い聞かせている話です。

ブランドは、お客様の頭と心にある、感情を伴った印象です。そしてブランディングとは経営の全てであり、その活動です。だから、ブランドの話の根っこに、社員の仕事を守るという経営の決断があっても、何の不思議もありません。のちに世界の写真家に使われることになるカメラの量産は、そういう動機で始まっています。

5. 1925年、ブース194/195。初年度は約1,000台、1930年までに約57,000台

ライカの一文は、数字より先に残った

翌1925年の春、ライカIはライプツィヒの春の見本市に出ました。公式のプレスリリースによると、場所はメッセホールの上階、ブース番号194/195。付いていたレンズはアナスティグマート1:3.5/50mmです。

数字も、公式に出ています。初年度の販売は、約1,000台。1925年から1930年までの製造は、各型を合わせて約57,000台。

この2つの数字の間に、5年があります。公式が「革命」と呼ぶカメラも、初年度は約1,000台で、孫の証言では黒字になるまで数年かかっています。

つまり、決断の一文は、出した瞬間には何も証明していません。証明は、そのあとに決断を守り続けた年数の側にあります。掲げるより守るというブランドプロミスの話と、同じ構造です。

6. 4年続いた最高売上のあと、3.8%の減収。それでも一文は残っている

話を、いまに戻します。報道によると、2024/25年度に5億9,600万ユーロだった売上は、2025/26年度に5億7,300万ユーロ、3.8%の減収となり、最高売上の更新は4年で止まりました。黒字は保っていますが、額は公表されていません。2026年4月には、社長も交代しています。

100年語り継がれる言葉を持つ会社にも、減る年は来ます。決断は一度で終わらないからです。変えないことと、変えることの線引きは、毎年引き直すものです。

それでも、公式サイトの歴史のページには、いまも1924年の一文が大きく引かれています。不確かな時期にリスクを名指しして決めた会社だ、という記憶を、会社が手放していない。ロゴは思い出すための引き金だと、私はいつも話しています。引き金が呼び出す中身は、こうした記憶の積み重ねでできています。

7. 2つの言葉が、100年の記憶をつくっている

この記事で見てきた言葉は、2つだけです。

ひとつは、バルナックの「リリパット」。自分の体の事情から生まれた、小さな道具への呼び名です。もうひとつは、ライツ2世の「リスクを取る」。何もない時期に、社員の仕事のために出した決断の言葉です。

議事録は残っていません。それでも、この2つの言葉は残りました。公式が語り、研究者が書き、孫が話し、遠い国の私まで引用しています。

大きな決断の多くは、決めた本人の頭の中にしか残りません。決断は、言葉にして人に向けて言ったときにはじめて、社員のものになり、お客様のものになり、会社の記憶になります。

自社の決断を、言葉にして残す手順

いま迷っている決断を1つ、紙に書きます。

  • 賭けているものを、名指しする。 資金、時間、評判、社員の仕事。「大丈夫だ」と書かず、何を失う可能性があるかを書きます
  • なぜ決めるのかを、人に向けて1行で書く。 数字の見込みより先に、だれのための決断かを書く。ライツ2世の場合、それは社員の仕事でした
  • 反対や懐疑を、消さずに聞く。 公式は「多くの管理職と技術者が懐疑的だった」と隠さず書いています。残すのは、その議論を受けて決めた言葉です
  • 社員の前で、一文で言う。 「ここに決める」と言える短さまで削ります。長い説明は、そのあとです
  • 日付を入れて、会社に残す。 社史、朝礼の記録、ホームページ。毎年読み返す場所に置きます。5年後に数字が出たとき、その一文が、会社の物語の最初の行になります

決めた日の数字は、たぶん小さい。ライカの初年度も、約1,000台でした。それでも、言葉にして守り続けた決断は、自分たちの会社の記憶として残っていきます。

地域の中小企業のブランディングについては、ブランディング会社のページで、考え方と進め方をまとめています。

▶ 関連記事:100年企業の共通点|変えないことと変えることの線引き

▶ 関連記事:ラグジュアリーブランドはなぜ高い?3つの条件

▶ 関連記事:ブランドプロミスとは?掲げるより「守る」がブランド


ほかの会社も読む

積み重ねで選ばれるブランドの記事です。
▶ エルメスのブランディング|語るより、残す経営を読む
▶ ミシュランのブランディング|説明の代わりに試せる場をつくる
▶ ホッピーのブランディング|「割って飲む」という土俵

よくある質問

Q. ライカの決断とは、何のことですか?

1924年、エルンスト・ライツ2世が、オスカー・バルナックの小型カメラの量産を決めたことです。言葉は「Ich entscheide hiermit: Es wird riskiert」(ここに決める。リスクを取る)。会議の日時の記録はなく、1924年6月16日か17日ごろという日付は特許の日付からの推定です。

Q. なぜ、ライカはブランドになったのですか?

理由を1つに断定はできません。事実で言えるのは、初年度の販売が約1,000台、1930年までの製造が約57,000台、そのカメラを使った写真家たちが新しい写真の分野を開いた、と公式が書いていることまでです。私の読みは、本文の7章に書きました。

Q. ライカの経営は、いまも順調ですか?

2024/25年度は売上5億9,600万ユーロ、2025/26年度は5億7,300万ユーロで3.8%の減収と報じられています。黒字は保っており、額は公表されていません。


この記事は、ライカの公式の記載と、ライツ2世の孫のインタビュー、研究者の記事をもとに、私の見方で読み解いたものです。

出典:Leica Camera AG「The History of the Leica I」 /Leica Camera AG プレス「100 Jahre Leica I」https://leica-camera.com/de-DE/presse/100-jahre-leica-i /Leica Society International「Ernst Leitz II: Interview with Dr. Knut Kühn-Leitz」https://leicasocietyinternational.org/blog/2016/02/ernst-leitz-ii-interview-with-dr-knut-kuhn-leitz /Macfilos(2024年6月17日)https://www.macfilos.com/2024/06/17/my-decision-is-final-we-will-take-the-risk-ernst-leitz-ii-in-june-1924/ /University of Wuppertal「100 years ago」https://www.uni-wuppertal.de/en/transfer/science-communication/jahr100wissen-/-100-years-ago/2025/erste-kleinbildkamera/ /InvestmentWeek(2026年9月10日)https://www.investmentweek.com/leica-verliert-nach-vier-rekordjahren-erstmals-wieder-umsatz/

株式会社オムニモスーク 代表 安田旬佑